クラシックギターの歴史
夢弦の会ギタースクール主宰 佐藤茂勝
- ギターの発祥
- 起源は古代エジプトの「ネッフェル」「オード」という楽器という説があります。メソポタミヤ、エジプトの古代文明の遺跡、テラコッタや彫刻にはギターに似た、胴と棹を持った弦楽器が見られます。
- ギターの先祖
- 古代ギリシャの楽器「キタラ」と考えられています。この「キタラ」がギリシャ神話に出てくる“アポロ神”の楽器という説もあります。
- 現代のギターの前身「ビエウラ」の誕生
- 「キタラ」がアッシリアからペルシャ、アラビアを経て、サラセン軍の侵入によりスペインに伝わり、16世紀にはギターの前身である平たい胴を持った「ビウエラ」になったといわれています。
- 「リュート」の隆盛
- 711年、ムーア人のイベリア半島占領によってスペイン経由でヨーロッパにギターの祖先「リュート」が伝わりました。15世紀になるとヨーロッパ各地の舞曲やファンタジアの演奏に使われ16世紀にかけては最もポピュラーな楽器となりました。(現在のギターとはボディの形が異なり、マンドリンのように丸みを帯びた型になっています)
- リュート・ビウエラの衰退とギターの誕生
- イタリアを中心にヨーロッパで隆盛を誇った「リュート」、スペインで発展した胴の平らなビエウラから16世紀~18世紀の「ギターラ」が誕生していきますが、弦は復弦で4コース、5コースと定まっておらず、サウンドホールもすかし掘りの形でした。この頃には、ミラン、ナルバエス、アロンソ、ムダーラなど現代のギターのレパートリーとなっている音楽家もいます。
こうして隆盛を極めたギター族の楽器も16世紀末頃より鍵盤楽器の「クラビコード」やバイオリン族の楽器の発展により衰退していきます。その後から5コース復弦の「ギター」がリュート、ビウエラに代わって発展し、音楽の内容も高度になっていきます。サンス、ガスパル、カリジノーソなどの曲が演奏されました。
- ギターの黄金時代
- 18世紀末から19世紀初頭はギターの黄金時代といわれ、アグアド、ソル、ジュリアーニ、カルリ、カルカッシ、コストなどの大ギタリストを輩出し、バイオリンの鬼才パガニーニもギター曲を作曲し、シューベルト、ウェーバーは歌曲や室内楽に、ロッシーニはオペラにギターを活躍させました。
この頃のギターは6弦で丸いサウンドホールを持ち現代のギターの基礎となる型に発展しています。これには「巻弦の発明」という技術的な要素があったといわれています。これにより響きを増し、復弦から6コースの単音弦という現代のギターの形になりました。
この頃のギターを19世紀ギターと呼び、イギリスのラコート、フランスのパノルモが代表的な制作者として知られています。ボディが現在よりもかなり小ぶりなギターです。
- クラシックギターの完成
- 19世紀後半に、ギター制作家アントニオ・デ・トーレス(1817-1885)によって現在のギターが形作られました。フランシスコ・タルレガ(1852-1909)が、このトーレスのギターを愛用して、ギター音楽が再び脚光を浴び、アンドレス・セゴビア(1892-1987)、ナルシソ・イエペス(1927-1997)などのクラシックギターの巨匠たちによって世界中に広まりました。また、セゴビアの愛奏した銘器ハウザーはクラシックギターの完成されたモデルとして、その後の制作家にも大きな影響を与えています。
クラシックギターの作曲家 & クラシックギターで演奏されている作曲家
クラシック音楽の傾向は時代とともに変化していきます。16世紀ルネッサンス時代に長音階・短音階 が生まれ、以後は、大きく、バロック時代→古典派時代→ロマン派時代→近代・現代、という流れの 中でその音楽は変遷を遂げてきました。中世ルネッサンス期を経て、宗教色の強い教会音楽を中心と するバロック時代の音楽は、やがてより秩序だった構成、形式を重んじる古典派音楽へと移り変わり、 交響曲、ソナタ形式等の秩序が生まれ、より均整のとれた音楽へと発展していきます。18世紀終わりには フランス革命等により全欧で自由と平等の思想が燃え上がり、その溢れ出る情熱が、古典派音楽にまで 伝搬します。その情熱は楽曲に 熱気と色彩を与え、溢れるばかりのロマンを湛えた美しい楽想が次から次へと生み出されていきます。 古典派後期に活躍したベートーヴェンは、古典派からロマン派 への重要な橋渡しの役割を果たしました。
- 各時代の主な作曲家
- バロック時代:J.S.バッハ、スカルラッティ、ヘンデル
古典派時代 :ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン
ロマン派時代:リスト、シューマン、メンデルスゾーン、ショパン、チャイコフスキー、ブラームス
近代・現代 :ドビュッシー、ラヴェル、スクリャービン、ストラヴィンスキー
夢弦の会ギタースクール主宰 佐藤茂勝
- ミラン Don Luys Milan(1500-1562)
- スペイン・ヴァレンシア生まれ、ビウエラ奏者、作曲家。1536年同地で「エル・マエストロ」と題された指で弾くビウエラ曲集を出版しました。この曲集は、ポルトガル王ジョアン3世に捧げられています。この曲集にはビウエラ演奏への助言だけでなく、タブラチュアによるオリジナル曲が多数含まれています。ミランはテンポの指定をした最初の作曲家のひとりでもあります。
- ナルバエス Luis de Narvaez(1500?-1555)
- スペイングラナダで生まれ、ビウエラ奏者。1538年、フランシスコ・ド・ラ・コルバの楽師として仕えていたとき、バジャドリードで『ビウエラ演奏のためのデルフィンの六部の譜本』を出版しています。この曲集には、音楽史上、最初の変奏曲の手本が含まれています。グレゴリオ聖歌やスペインのロマンス(恋歌)に基づいた編曲や多声のファンタジーが見られ、それらはフランドル楽派の様式に近しいものです。1548年、彼はフィリップ王子(後のフィリップ3世)に仕え、フランドルやイタリア、ドイツへの旅に随行しています。
- ノイジードラ Hans Neusidler(1508-1563)
- ハンガリー出身のドイツ人リュート奏者、作曲家。ニュルンベルクで出版をし、成功を収めました。続いてベネツィア、フランクフルト、ストラスブールの出版者がハンス・ノイジードラーのリュートのためのタブラチュアを出版し、二人の息子(共にリュート奏者)と“ノイジードラファミリー”としてドイツ・リュート音楽の歴史に残っています。
- ムダーラ Alonso Mudarra(1510-1580)
- スペイン人ビウエラ奏者、ギター奏者、作曲家。1546年にセヴィリアで「ビウエラのための3部の譜本」を出版しました。この曲集にはビウエラ独奏のための作品が44曲、歌曲が26曲、ギター独奏曲が6曲、そしてハープあるいはオルガンのための作品が1曲、タブラチュア譜によって収録されています。
- ガリレイ (Vincenzo Galilei(1520-1591)
- イタリア人リュート奏者、作曲家。有名な天文学者ガリレイの父です。主にフィレンツェに暮らしていました。
秀でた人文主義者である彼は、ジョヴァニ・ザルリーノとともヴェネツィアで研鑽を積みました。リュート作品を出版し、マドリガルや理論書も出しています
- ジョン・ダウランド John Dowland(1563-1626)
- アイルランド出身のリュート奏者、歌手、作曲家。ジョン・ダウランドはヨーロッパ全土で知られたリュート奏者といわれています。
- ジョンソン Robert Johnson (1583-1633)
- 父はジョン・ジョンソン。1581年から1594年に没するまでイギリス女王のリュート奏者を務めています。彼はリュート奏者として1596年からジョージ・ケイリー氏(侍従長)に仕えていたという記録です。1604年には、ジェームス1世のリュート奏者として彼の名は現れます。1607年、グローブ座とブラックフライヤーズ座で仮面劇や戯曲を上演する劇団の作曲家になりました。また、シェークスピア作品のために作曲したことで知られるただ一人の作曲家です。戯曲『テンペスト』のためにふたつの歌曲が作曲されています。
1611年にはヘンリー王子の私的礼拝堂の音楽家を務めています。この時代のイギリス歌曲作曲家の中で最も優れた作曲家の一人ということができるでしょう。ルネサンスリュート(9あるいは10コース)のために作曲された多くの曲が、現代のギターのレパートリーにもなっています。
- フレスコバルデイ Girolamo Frescobaldi(1583-1644)
- イタリア人オルガン奏者、作曲家。1635年に『音楽の花々』を、次いで1637年に『トッカータ集第2巻』を出版しました。
ローマはサン・ピエトロ大聖堂のオルガン奏者を務め、就任演奏会には、3万の聴衆が集まったと伝えられています。当時の彼の評判がどれほどのものであったかうかがえる逸話です。
- サンス Gaspar Sanz(1640-1710)
- スペインのギタリスト、オルガン奏者。大学で神学を学ぶ。1674年「スパニッシュギターの音楽教育」を出版しています。イタリアのナポリで教会のオルガン奏者、オーストリアで教授活動をしています。
- ロギー John Anton Logy(1650-1721)
- リュート奏者、ギタリスト。生粋のボヘミアン。
- パーセル Henry Purcell (1659-1695)
- 17世紀後半のイギリス最大の作曲家と呼ばれ、9歳の頃に王室付属礼拝堂少年声楽隊の一員となり、18歳にして王室弦楽団の常任作曲家となる。宮廷作曲家としての活動以外にも劇音楽でも名声が高い。規則にとらわれない自由奔放な作風は現代においても新鮮でギターのレパートリーとしても数多くの曲が演奏されています。
- ロンカリ Ludovico Roncalli(1660?-1720?)
- イタリアのギタリスト。1692年「ギター音楽選集」を出版しています。
- ビゼー Robert de Visee(1660-1720)
- フランスのリューティスト、ギタリスト。王室室内楽のメンバーとして活動していました。1682年「王に捧げしギター曲集」を出版しています。
- アレッサンドロ・スカルラッティ Alessandro Scarlatti,(1660-1725)
- バッロク期の作曲家で、オペラ、カンタータなどで有名です。同じくバロック期の作曲家、ドメニコ・スカルラッティの父。彼の曲は数多く、ギター編曲でも演奏されています。
- ムルシア Santiago de Murcia(1682-1735?)
- スペイン女王マリー・ルイズ・ガブリエルのギター教授、ギタリスト、作曲家として活躍しました。
- ラモー Jean-Philippe Rameau(1683-1764)
- フランスのディジョンで生まれ、教会のオルガニストであった父より音楽の手ほどきを受ける。その後はパリでオルガニスト、作曲家としてオペラを成功させたり、教育者として音楽理論書を発表しています。彼の曲は数多くギター編曲でも演奏されています。
- ヴァイス Sylvius Leopold Weiss(1684-1750)
- ドイツのリューティスト、作曲家。
- バッハ Johann Sebastian Bach(1685-1750)
- 紹介するまでもないくらいに有名なバッハ、音楽一家バッハ家の中でも大バッハと後世に呼ばれているオルガニスト、作曲家です。彼の言葉になる「ギターは小さなオーケストラである」は有名で、彼の曲の多くはギターに編曲されて現代でも盛んに演奏されています。
- スカルラッティ Domenico Scarlatti(1685-1757)
- イタリアの作曲家アレクサンドロ・スカルラッティの息子として生まれ、16歳にはナポリの王室教会オルガニストとして活躍していました。1730年頃に「ハープシコードの為のソナタ集」を出版して、現代でもピアノやギターアレンジで演奏されています。
- ヘンデル Georg Friedrich Handel(1685-1759)
- バッハと並び称される作曲家ヘンデルは、ドイツで法律と音楽を学んだ後各地を旅行し、イタリアではコレルリやD.スカルラッティと交遊を深めています。1712年からはイギリスの渡り作曲活動をしています。ギターで演奏される曲も数多くあります。
- ジャバンニ・パウロ・マルティーニ J.P.A.Martini(1741-1816)
- マルティーニの作品で有名なのは「愛の喜び」です。ドイツの出身、後フランスに帰化。劇場監督、パリ音楽院の教授なども務めました。
「愛の喜び」はイタリア歌曲集に収録されていますが、近年は様々な楽器で演奏される事も多い名曲です。同時代のイタリアの作曲家マルティーニ(Padre Giambattista Martini 1706~1784)と区別して、「ドイツ人のマルティーニ」(Martini il Tedesco)と呼ばれています。
- モーツァルト Wolfgang Amadeus Mozart(1756-1791)
- 父レオポルドより音楽の英才教育を受け大音楽家となった事は良く知られています。反面,同年代の子供たちと一緒になって遊ぶこともなく,世間知らずの変わり者でもあったようです。青年期以後はより良い地位への就職と収入を求めて活動をし旅をした.母親と2人で旅行したパリでは,母親を一人宿に置き去りにして音楽会,社交,女遊びに明け暮れ母親は寂しさと心痛で死んでしまったとも言われています。また、ハイドンとの出会い,それにかなりの収入を得たにもかかわらず貧困.それからコンスタンツエという愛妻,悪妻との出会いと結婚、フリーメイソンへの加入、波瀾万丈の人生、そして余りに早く命を使い果たして35歳という若さで死んだ。彼の名曲の数々はギターにもアレンジされて演奏されています。
- カール Leonhard von Call(1768-1815)
- オーストリアのギタリスト、作曲家
- ベルンハルト・フリース Bernhard Flies(1770-1795?)
- 「モーツァルトの子守歌」日本では堀内敬三の訳詩で 「眠れよい子よ 庭 や牧場に...」 の歌詞で知られている有名な曲の作曲者として知られています。 彼は "モーツァルトと同じ王宮で音楽家として働いていた"、あるいは "モーツァルトを診た医師で、趣味として作曲もしていた" などの説があります。
- カルリ Ferdinand Carulli(1770-1841)
- ナポリで生まれ、牧師から音楽理論とチェロを学び、後にギターを習得し、1808年にパリで活動を始めます。演奏家、作曲家、教育者としても活躍、名声を得る。ギター制作家、フランソワ・ラコートとも親交があり、ギターの製作技術の向上にも貢献している。作曲家としては非常に多作で400曲以上の作品が残されており、ギター二重奏は現在でもコンサート・プログラムに載り演奏されている。ギター初級者には練習曲で馴染みのある作曲家です。
- ソル Fernando Sor(1778-1839)
- バルセロナ生まれ、音楽愛好家の父の影響で幼少の頃より非凡な才能を発揮する。その後父親を失い、引き取られたモンセラート修道院で音楽教育を受け才能を開花させる。19歳の時にバルセロナでオペラを上演、以後オペラ、バレエを主とした作曲活動を始める。1813年にパリに出てからは当時人気の高かったギターの演奏、作曲活動を本格化してギタリストとしての名声を高めた。当時のギター制作家とも親しくし、彼のアドバイスを受けたパノルモ、ラコートは名工として名を馳せている。演奏家としてはヨーロッパ各地やロシアでも活躍し、特にロンドンでは高い名声を得ました。ソルの作品は現在も古典ギターの最高峰として演奏されて、作風からは、ギターのベートーベン、モーッアルトと呼ばれるほどの存在です。晩年は貧困、病苦、愛娘の死などあり悲惨だったようです。
- ジュリアーニ Muro Giuliani(1781-1829)
- イタリアのバルレッタ生まれ、幼少よりギター、バイオリンに親しみ、20歳になる頃にはギタリストとしてイタリアでは彼の右に出る物はいない程に成長していた。1800年よりヨーロッパ各地に演奏旅行に出て、その後ウィーンに長く滞在し、多くの貴族や作曲家のハイドン、ベートーベンをはじめとする音楽家との交遊を持ち、演奏家としても成功をおさめた。作品は合奏曲、ギター協奏曲、歌曲と多岐にわたり、作風は華やかなテクニックを駆使した曲が多い。同時代のソルの典雅で控えめな音楽とは楽風の違いから対立もあり、ソルの死の翌年にウイーンで亡くなりました。
- ヂュアベリ Anton Diabelli(1781-1858)
- オーストリアのピアニスト、ギタリスト。教育家、作曲家、編曲者として活躍しました。 ハイドン、モーツアルト、ベートーベン、シューベルトの編曲で知られています。
- パガニーニ Nccolo Paganini(1782-1840)
- イタリアのジェノバで生まれる。バイオリンの鬼才と呼ばれ、その演奏は「パガニーニは悪魔からヴァイオリンを習ったに違いない」という噂がささやかれていたほどで、同時代のショパン、シューマン、シューベルト、ベルリオーズといったロマン派の作曲家たちに衝撃と影響を与えている。パガニーニは、ギタリストとしてもギターの曲も数多く残しています。作風は技巧的で、華麗な音楽です。
- アグアド Dionisio Aguado(1784-1849)
- マドリッド生まれ、神父パシリオにギターを学び、やがて練習曲集、ギター教本を出版して教育家として高い評価を得る。1825年にパリで活動を始めソルと友情を深める。ソル作曲の二重奏曲「二人の友Op.41」はアグアドと演奏する為に作曲され、第二ギターパートの下にはアグアドの名が記されている。アグアドの爪を使う奏法に対して、ソルは指頭奏法であったと伝えられている。この二人の二重奏がどんな音色か興味深いとこです。1838年故郷のマドリッドに戻り教育家としての終生を過ごした。
- レニアーニ Luigi Rinaldo Legnani(1790-1877)
- イタリアのフェルララに生まれる。最初はテノール歌手として活躍、28歳の頃ミラノで行われたギターの演奏会でギタリストとしての不動の地位を築く。その演奏技巧はジュリアーニをも凌ぐと言われたほどであったという。ヴァイオリンの鬼才パガニーニの伴奏者として数度の演奏旅行を行ったと伝えられる。さらに1829年演奏旅行の途中馬車から転落して負傷したとき、急を知って駆けつけたソルとアグアドが代わって演奏を引き受け、無事に会を済ませたというなど色々エピソードが残っている。1833年に建設業者スタッフルと共に楽器メーカーを設立、良質のバイオリンとギターを作っていたそうです。
- カルカッシ Matteo Carcassi(1792-1853)
- フィレンツェ生まれ、幼少よりギターを習い、10代の後半にはすでにギタリストとして成長していた。ドイツなどの国外での演奏で評判になり、その後パリ、ロンドンなどを中心にヨーロッパ主要都市での演奏活動で多忙を極めている。当時人気のギタリストであった。現在でも彼の「カルカッシ教則本」「25の練習曲集」は全世界のギターを学ぶ人に使用されている。
- シューベルト Franz Peter Schubert(1797-1828)
- オーストリアの作曲家。小学校を経営する父に、1797年に生まれる。11歳で貴族向きの寮に入り、普通の教育に併せて音楽教育を受けた。1814年ごろに父の小学校の助教員となり、作曲活動を開始した。代表作は「美しき水車小屋の乙女」「冬の旅」「白鳥の歌」「交響曲第8番『未完成』」など。
- コスト Napoleon Coste(1800-1883)
- フランス・ドーブにて軍人の家庭に生まれたが、11歳の時に重病にかかり長い療養生活を送った為に進路を変え、ギター愛好家であった母親の影響でギタリストへの道を歩み始める。18歳の頃には教育、演奏家として活動し、その後パリに出て、当時のギタリスト達と出会いソルに教えを受けた。現在も彼の作曲したエチュードはギターを学ぶに欠かせない秀作が多い。
- メルツ Jphann Kaspar Merz(1806-1856)
- ブレスブルグ生まれ、彼の家庭はあまり裕福ではなかったが、独学でギターとフルートを学び、20歳からは教授活動をしながらさらに研鑽を積む。1840年にウィーンでの演奏会で高い評価を得、宮廷ギタリストに迎えられる。終生はオーストリアの暴動やハンガリー革命に会い、貧困に喘ぐなど波乱に生涯を送った。
- シューマン Robert Alexander Schumann(1810-1856)
- ドイツ・ロマン派の作曲家です。はじめピアニストを目指しましたが、指をいためて断念し、作曲に進みました。また、筆も立ち、当時代表的な音楽評論家の一人としても活躍しました。妻のクララ・シューマンは、夫よりも名声が高かったほどのピアニストでした。代表作はピアノ曲「子供の情景」「幻想小曲集」「謝肉祭」。歌曲「流浪の民」「詩人の恋」「女の愛と生涯」などがある。壮年期には精神を病みライン川に身を投じて亡くなりました。
- ショパン Frederic-Francois Chopin(1810-1849)
- ショパンの生まれたポーランドは当時、ロシア、プロシア、オーストリアによって国土を3分割支配されており、 西欧の自由と平等の思想に燃え上がる革命の嵐に煽られて、ショパンが20歳になる頃、ワルシャワの革命軍が ロシア軍への反乱を企て、一触即発の危機にありました。 20歳で そのようなポーランドの危機に直面して身を引き裂かれるような思いとともに出国し、後半生をパリで過ごすことになってもなお、祖国ポーランドを愛し 続け、祖国の栄光と衰退を劇的に表現したポロネーズ、素朴な農民の舞曲から哀愁極まる旋律美に 至るまで多彩な表情が聴く人を惹きつけるマズルカを数多く作曲しています。ショパンは生来病弱な体質で、17歳の時に2つ年下の最愛の妹エミリアを結核で亡くしてから、自分の 恵まれない健康を意識し始め、将来に対し漠然とした絶望感を持つようになりました。 初恋の人、グラドコフスカへの実らなかった片想い、生涯で彼が最も愛した女性と思われるマリア・ヴォジンスカ との間で交わされた婚約の破棄、自由奔放な男装の女流作家ジョルジュ・サンドとの謎に満ちたスキャンダラスな 恋、破局、等々、彼は長期的で安定した幸せを手に入れることの出来ない運命にあったと言えます。 そして39年の短い生涯を持病の肺結核との戦い、死と隣り合わせの不幸で陰鬱な人生を終える事になります。
- カーノ Antonio Cano(1811-1897)
- ムルシアに外科医の息子として生まれる。幼少よりアグアド教本でギターを学び、マドリッドに出て本格的にギターと音楽を研鑽する。故郷でしばらく外科医としての生活を送るが、1847年にマドリッドに行った際にアグアドよりギタリストになる事を勧められ、その道に進む事を決心する。その後はスペイン、フランス、ポルトガル各都市での演奏会を成功させ、1858年にスペイン宮廷付きギタリストになる。1874年からは国立聾唖学校の教授となり終生を過ごした。
- ジェイムズ・ピアポント J.S.Pierpont(1822-1893)
- クリスマスの定番曲「ジングルベル」は、牧師のピアポントが感謝祭のお祝いの歌として作曲したと伝えられています。当時ボストンで流行していたスポーツ“馬そり競走”をイメージして作られた曲のコーラス部分が「ジングルベル」として広まったようです。
- フォスター Stephen Collins Foster(1826-1864)
- 「おおスザンナ」「草競馬」などで知られるアメリカのフォークソング(グリーングラス)の祖ともいうべき作曲家。1864年1月13日舞台での事故の怪我により死去。享年37歳。彼の死を看取った人は誰もいません。遺体のポケットには38セントのお金と、友人と奥さんに宛てた書きかけの遺書が残されていました。
- フェレール Ferrer Yesteve(1835-1916)
- ギタリスト、作曲家、パリ国際音楽院などで教師として活躍しました。後にはバルセロナに戻り教授活動をしています。
- マスネ Jules Emile Frederic Massenet(1842-1912)
- ビゼーやグノーと並ぶフランス・オペラの巨人と言われています。工兵士官の父とピアノ教師の間に生まれ、9歳でパリ音楽院に入学、21歳の時には、当時ヨーロッパで最も権威があるとされた「ローマ大賞」の第1位を獲得、36歳でパリ音楽院の教授の座についています。
- サン・サーンス Camille Saint-Saens(1835-1921)
- フランスの作曲家。幼い頃から天才と呼ばれ、3歳半で作曲、13歳でパリ音楽院に入学。卒業後は聖マドレーヌ教会オルガン奏者やニーデルマイヤー音楽院の教授を務めた。1871年ビュシューヌと協力して国民音楽協会を創設し、フランスの交響楽の発展に尽力した。弟子のフォーレ、フランク、ラロなどを援助するとともに自らも多くの器楽曲を書いた。ピアノ・オルガンの演奏者として各地を演奏旅行、1921年北アフリカのアルジェにて客死した。音楽以外にも哲学、考古学、占星術などの分野でも専門家として認められる。日本では組曲「動物の謝肉祭」の「白鳥」で有名です。
- メンデルスゾーン Felix Mendelssohn-Bartholdy(1890-1847)
- ハンブルクに生まれる。ユダヤ系の銀行家を父に持ち裕福で恵まれた家庭環境で育った。ルードヴィヒ・ベルガーにピアノを、作曲をカール・フリードリヒ・ツェルターに学び、最高傑作といわれる「真夏の夜の夢」を17歳のときに作曲している。 1835年ライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者となった。1837年Cecile Jeanrenaudと結婚。1842年からライプツィヒ音楽院の設立に携わり、同校を世界的に有名な音楽学校に育て上げた。 また、ピアニスト兼指揮者として演奏旅行をたびたび行った。 バルトルディの名前は1824年にユダヤ教からキリスト教に改宗した際に付け加えたものである。
- ターレガ Francisco Tarrega(1852-1909)
- スペインのヴァレンシア地方ヴィリャレアルに生まれる。八歳の時からギターを始め後にバルセロナに移り、資産家の援助でマドリード音楽院に入学、ギターのほかピアノやヴァイオリン、作曲法でも優れた成績をおさめ卒業。その後はバルセロナやマドリードなどの主要都市で多くの演奏会が開かれ、従来のギター演奏には見られなかった新鮮で独特の奏法は聴衆に絶賛の声で迎えられた。ターレガの素晴らしさは従来の奏法をいったん白紙にしてギターのもつあらゆる可能性と表現力を引き出した奏法と他の分野の音楽をギター曲に編曲したことです。ターレガはギターの演奏と作曲の両面で徹底的な改革を成し遂げ、近代ギターの父と呼ばれています。
- アルベニス Isaac Manuel Flancisco Albeniz(1860-1909)
- スペインの生んだ放浪のピアニストとして知られるアルベニス。その作風はまさに、ギターを生んだスペインの音楽として、数多くの曲がギターに編曲されて演奏されています。ターレガによる彼のピアノ曲のギター演奏を聴いた時には「オリジナルのピアノ曲よりもギター曲の方が優れている」と語ったと伝えられている程に、スペイン的、ギター的です。カタロニア地方のカンプロドンで生まれ、幼少より才能を発揮、4歳でピアニストとしてデビューした。8歳でパリ音楽院を受験するが、試験官の目前でボールを投げて鏡を壊し、落第した。また9歳で演奏旅行に嫌気が差して家出。また、12歳でプエルトリコに渡り、演奏会で稼ぎながら旅するなど腕白な少年であった。その後、ライプツィヒの音楽院で短期間学んだ後、1876年にブリュッセルで学んだ。アルベニスの音楽はジプシーの音楽や、アラビア王朝の音楽など、非ヨーロッパ系音楽の影響が強く、独特の個性と魅力に満ちているスペインの音楽の個性をそのまま受け継いでいる。
- ミルドレット・ヒル Mildred Jane Hill(1860-1916)
- 世界中で歌われている「ハッピーバースデー」の作曲者。この曲は1893年にアメリカのケンタッキー州で幼稚園の保母さんをしていたミルドレット・ヒル(34)とパティ・ヒル(25)の姉妹が、朝に園児を迎える時の曲として作曲、作詞しました。ですから当初の曲名は『グッドモーニング・トゥ・オール』でした。1924年頃に無断で歌集に掲載されたときに「ハッピーバースデー」の歌詞がつけられ、ミュージカルで使われたりして広まったようです。ギターの入門曲集や教本にもよく使われている曲です。
- ドビュッシー Claude Achille Debussy(1862-1918)
- フランスの作曲家。パリ近郊のサン・ジェルマン・アン・レーで生まれる。9歳のとき、パリ・コミューンの戦火を逃れた先で初めてピアノの手ほどきを受けたといわれている。1873年からパリ音楽院に学び、その後スイス、イタリア、ロシアに遊学し、パリに戻った後は印象派芸術家との交流を通して印象主義音楽を確立した。「月の光」「子供の領分」 等の曲で知られています。ギターにも編曲されて演奏されています。
- サティ Erik Satie(1866-1925)
- エリック・サティは、酒場のピアニストから始まり、スキャンダラスな作品を発表しては批判のやり玉にばかりあげられていた生涯でした。しかし時代を経て、1980年代にはちょっとしたブームにまでなりました。
- グラナドス Enrique Granados(1867-1916)
- スペインの作曲家。ピアニストとしても有名。同時期のアルベニスと同じカタロニア地方のレリダという町に生まれています。バルセロナでピアノと作曲を学び、バルセロナを中心に活動した。1901年グラナドス音楽院を設立。1916年客船に乗船中、英仏海峡でドイツ軍の魚雷攻撃を受け沈没し、行方不明となった。クラシックギターのレパートリーにはなくてはならないスペインの空気を感じさせる作風で多くの曲がギターにアレンジされている。
- モーツァーニ Luigi Mozzani(1869-1943)
- イタリアの作曲家、ギタリスト、バイオリン制作家。ギター曲の「フェステ・ラリアーネ」はギター愛好家には好まれて演奏される曲として有名です。
- ラベル (1875-1937)
- スペインにほど近いフランス南西部のシブールに生まれた。7歳のころ、音楽 愛好家であった父からピアノの手ほどきを受け、14歳でパリ音楽院に入学したが、この年、パリでは万国博覧会が 催され、異国の文化に接するなかで、インドネシアのガムランや、ロシアの音楽を聴き 衝撃を受けた。このことは、ラベルのその後の音楽に大きな影響を与えたといわれる。 22歳のとき、有名な作曲家フォーレについて作曲を学び、彼独自の音楽を 築いていく。新しい様式と独特な方法で作曲され、やがて近代フランスの 代表的な作曲家といわれるようになった。
- ヘンツェ Carl Henze(1872-1946)
- ベルリンに生まれ、ギターを習得した後は、主にマンドリン合奏で活動している。1891-1896年ファザーノの著名なマンドリン六重奏団と共にヨローッパ各地を演奏。1896年にはベルリンに移り、150人のマンドリン・リュート合奏団を結成している。現在のギター愛好家には「夜想曲」などのレパートリーの作者としても知られている。
- リョベート Miguel Llobet(1878-1938)
- リョベーとはタレガの高弟として、その伝統的奏法を引き継いだギタリスト。12歳の頃叔父からもらったギターとの出会いが始まりで、16歳の時にタレガと出会った。 タレガのことを「今まで知らなかったギター音楽の新しい領域を発見し、斬新な奏法を開発して、美しい音色を発見した」「自分はタレガに学んだというよりは彼の音楽を身 をもって体験した」と言っている。青年時代のセゴビアにも多くの影響をあたえたらしい。
また、 リョベートは多くの著名は作曲家に認められ、彼らにギター音楽への興味をもたせた。マヌエル・デ・ファリャの「ドビッシーの墓碑銘への賛歌」はリョベートに捧げられている。
- レスピーギ (1879-1936)
- イタリアはボローニャ生まれの作曲家で、代表作に交響詩「ローマの噴水・松・祭り」があります。
- サグレラス Julio Salvador Sagreras(1879-1924)
- ギタリスト、教師、作曲家。 ギタリストの両親に英才教育を受け、6歳にリサイタル。 12歳には音楽アカデミーでピアノと音楽理論を学び ギターの教授になります。1905年に、「Academia de Guitarra」ギターの専門学校を開きます。 1900年と1936年の間はコンサート・ホールとサロンで多くのコンサートを催し、また、ラジオリリースに参加します。
カゴメのTVコマーシャルで村治佳織さんの演奏「はちすずめ」がよく知られています
- 岡野貞一 (1878-1941)
- 「ふるさと」「おぼろ月夜」「春の小川」「春が来た」の作曲者として知られています。
- ポンセ Manuel Maria Ponce(1882-1948)
- メキシコでポンセ家の12番目の末っ子として生まれ、4歳の時に姉のジョセフィーナからピアノを習い始め、少年時代は流しの民謡歌手の演奏を良く聴いていた。国立音楽院に進み、後にイタリアのロッシーニ音楽院で作曲を学び、メキシコに戻った後は26歳の若さで国立音楽院のピアノ科教授となる。1910年には自らのピアノアカデミーを主宰する。
1923年、メキシコに演奏旅行に来ていたセゴビアのコンサートを聴き、ギターの音色に魅せられていく。二人は親交を深め、セゴビアの勧めでギターの為の「ソナタ・メヒカーノ」を作曲。その後もギター曲を作り。作曲家の名声を高めていく。1943年セゴビアが10余年待ち続けていた「南の協奏曲」が完成、セゴビアのギターによりウルグアイのモンテビデオで初演され大成功を収める。管弦楽、室内楽、ピアノ曲、歌曲、と数あるポンセの曲の中でもギターの為に作られた曲が現在でも多く演奏されています。主な曲には「ソナタ第3番」「前奏曲集」「スペインのフォリアによる変奏曲とフーガ」「ギターとハープシコードの為のソナタ」。中でも面白いのが、セゴビアの依頼によって作曲したバロック音楽はヴァイス作として発表しています。
- バリオス Agustin Barrios Mangore(1885-1944)
- パラグアイの生んだ20世紀の最も偉大なギター演奏家、作曲家といわれています。但し近年までは、広く知られる事はありませんでした。若い頃、スペインにも「修行」に出かけて、ゼゴビアの目に留まり、積極的な評価さえ受けていましたが、巨匠ゼゴビアは、バリオスの曲を最後まで一度も演奏することはなかったといわれる。当然、バリオスの存在はその卓越した音楽性にもかかわらず、マイナーな地位におかれていました。その頃の 欧州の音楽的基盤はすでにバッハ中心に据えられていて、南米の音楽に対する評価が低かったことに原因あったのでしょう。「ギター音楽」さえスペインの民族音楽とみなされ、そのため日本の音楽大学には「ギター科」さえあるかどうかで、全く無視されていた時代がありました。ゼゴビアが世界に知られるようになった経緯にさえ、それまでギターで演奏されることのなかったリュート組曲以外のバッハの曲をギター演奏に編曲して、ギターの独奏楽器としての地位を与えた第一人者として知られるようになった訳です。
また、最初にバリオスを紹介した「プロディーサー」が、舞台のバリオスに、南米のポンチョを着せ、民族帽を被らせたためではないかとのみかたもある。その為にクラシック音楽としての評価がなされなかった。
また、バリオスの優れた演奏技術に、巨匠ゼゴビアが、その地位を脅かされるのではないかとの警戒感があったのではないかという意見さえあります。
しかし、本当の訳はバリオスの性格にあったようです。まったく名声や金銭欲に無頓着。作曲した楽譜も友人たちに無償で配っていたといわれる。音楽を心から愛し、欧州音楽よりもパラグアイの民族性にこだわり、名声や金銭欲からも解放され、なかば放浪の生活をおくったようなバリオス。彼の音楽の魅力さえもそこにあるのでしょう。
そんなバリオスの名曲を、バリオスの没後50周年記念して、巨匠セゴビアの弟子であるジョン・ウイリアムズが発掘し、そして演奏した。弟子の代にして、始めて紹介されるに至ったというところに、謎めいたセゴビアの沈黙があり、後の憶測もあった。近年になって楽譜も出版され広く演奏されるようになっています。
- 本居長世 (1885-1945)
- 国学者として有名な本居宣長の6代目の子孫。東京音楽学校を主席で卒業、ピアニストを目指すが、指の怪我で断念。宮城道雄らと新日本音楽運動に参加、洋楽と邦楽の融合を模索していた。作詞家の野口雨情と数々の童謡を発表している。「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」などが有名です。
- 中田章 (1886-1931)
- 東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の教授で、オルガニスト、作曲家として活躍。世界的に知られた名曲「早春賦」の作曲者として有名。「めだかの学校」「小さい秋みつけた」「夏の思い出」の作曲家、中田喜直の父親です。
大正時代、昭和初期に活躍した日本を代表する作曲家で、大阪市歌なども手がけている。
- 中山晋平 (1887-1952)
- 東京音楽学校を卒業後、島村抱月が松井須磨子らと芸術座を旗揚げすると中山晋平も参加。トルストイの「復活」公演の劇中歌として「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」を発表。「カチューシャの唄」は、松井須磨子の歌とともに人気を博し全国的に名を知られるようになります。数多くの童謡を作曲。野口雨情らとともに日本の民謡を研究しました。
「しゃぼん玉」「てるてる坊主」などの民謡に加え、「波浮の港」「出船の港」「東京行進曲」など多くのヒット曲を手がけて日本の大衆歌謡に大きな影響を与えた作曲家です。
- 杉山長谷夫 (1889-1952)
- 歌い継がれている「花嫁人形」大正13年に竹久夢二とともに知られた人気挿し絵画家、 蕗谷虹児(ふきやこうじ)氏が少女雑誌「令女界」に発表したものです。その後、ヴァイオリニスト兼作曲家の杉山長谷夫が曲をつけました。
- 弘田龍太郎 (1892-1952)
- 東京音楽学校を卒業後、文部省在外研究生としてドイツ留学。詩人、北原白秋と数多くの童謡を創作しています。代表作に『鯉のぼり』『浜千鳥』『叱られて』『雀の学校』『春よこい』『靴が鳴る』など歌い継がれている童謡がたくさんあります。
- 草川 信 (1893-1948)
- 松代出身の作曲家。「夕焼けこやけ」「揺藍(ゆりかご)の歌」「どこかで春が」などの童謡を作曲した。”赤い鳥の運動”に参加、 1918年に鈴木三重吉らによって創刊された児童雑誌「赤い鳥」を基盤に展開された児童のための運動で、泉鏡花,小山内薫,芥川竜之介,北原白秋,島崎藤村ら当時を代表する文学者の参加を得て児童文学、創作童謡の大きな運動となった。草川信の他に、成田為三・山田耕筰・弘田竜太郎・藤井清水・中山晋平ら当時の第一級の音楽家が参加している。
- 成田為三 (1893-1945)
- 秋田出身の作曲家、小学校教師でしたが、東京音楽学校(現・東京芸術大学)に進み音楽の勉強を本格的に始め、ドイツに留学、帰国後は川村女学院、東洋音楽学校、国立音楽学校などで教授活動、著作活動につとめた。「浜辺の歌」「かなりや」などの作曲者として知られています。
- 多 忠亮 (1895-1930)
- ”大正ロマン”を代表する画家竹久夢二が作詞した『宵待草』の作曲者として有名です。この歌は「童謡」というよりは、むしろ「叙情歌」といった方がよいのかもしれません。歌詞は夢二の処女詩集『どんたく』(実業之日本社 大正2年11月)に発表され、バイオリニストの多忠亮が曲を付けました。大正7年9月に楽譜が出版され、はまたたく間に全国に流布し、人々の愛唱歌となりました。
- 川村光陽 (1897-1946)
- 「りんごのひとりごと」「うれしい雛祭り」「かもめの水兵さん」などの曲で知られている童謡作曲家。
- フランク・チャーチル Frank Churchill(1901-1942)
- アカデミーの賞獲得作曲家。1937~1933 年にウォルトディズニーの専属ピアニストとして従事し、白雪姫のテーマソング「いつか王子様が」、子豚物語の「狼なんかこわくない」等の曲で有名になりました。
クラシックギターの代表的な演奏家
音楽の世界では、ロマン派から近代・現代で、作曲家と演奏家と分業されて呼ばれるようになってきたようです。バロック時代・古典派時代では作曲家=演奏家ですから、ここでは現代の代表的な演奏家を紹介しています。
夢弦の会ギタースクール主宰 佐藤茂勝
- アンドレス・セゴビア (1893-1987)
- スペインが生んだ20世紀最大のギター奏者のひとり。独学でギターを学び、16歳でグラナダでデビュー。このデビュー・コンサートが地方新聞で大好評を博したことで、「ただちにギターの使徒になろうと決心した」と自伝に書いています。
1912年、その当時ギター製作の第一人者マヌエル・ラミレスの工房を訪れて、コンサートで使うギターの借用を願い出ます。ラミレスが手渡したギターを、セゴビアは一目見て気に入り、我を忘れて試奏に没頭しました。ラミレスはすっかり感心して、そのギターをセゴビアに無償で与えました。
そこに居合わせた、王立音楽院のバイオリン科の主任教授が、セゴビアの才能を見いだしバイオリンに転向するなら力になろうと申し出ました。セゴビアは感激しながらも、「ギターはバイオリンよりはるかに自分を必要としている」、と答えて丁重に辞退したということです。
23歳で初めて南米に演奏旅行を行い、31歳の時にはパリでの演奏が大成功。以来、欧米各地で独奏会を開き、セゴビアはホールでコンサートを開いた最初のギタリストとして成功を収めます。「セゴビア・トーン」と呼ばれる独自の音を追求し、その音は限りなく美しいクリアな音と音の伸びで聴衆を魅了しました。 また、これまでのギターレパートリーを超えて、ピアノ、ヴァイオリンへの編曲を数多くおこない、ポンセ、ヴィラロボス、ロドリーゴをはじめとする作曲家にオリジナルギター曲を依頼し、独奏曲に限らず、協奏曲にまでレパートリーを広げました。これにより、セゴビアはクラシックギターがフラメンコなどの大衆音楽とは一線を画し、ピアノ、ヴァイオリンと対等に芸術音楽であることを示しました。
後進の指導にも熱心で、ジョン・ウィリアムズ、オスカー・ギリア、クリストファー・パークニングをはじめとする現在の世界的ギタリストを育てました。
- ナルシソ・イエペス (1927-1997)
- ルネ・クレマン監督の映画「禁じられた遊び」の音楽を担当し、全編を通してギターで構成、演奏をし、そこで使われたスペイン民謡「愛のロマンス」はよく知られたギター曲となりました。
農家に生まれたイエペスは4歳の時に父からプレゼントされたギターを、独学で習得し、ロルカの音楽アカデミーで正式にギターを学ぶ事になりました。13歳でバレンシア音楽院に進み、ギターをエスタニスラオ・マルコ、ホアキン・ガルシア・ローサ、ラファエロ・バラゲールに、作曲をマヌエル・パラウ、ビセンテ・アセンシオに学びました。
1947年、20歳の時に大指揮者アタウルフォ・アルヘンタに自分の演奏を聴いてもらうチャンスを得、その演奏に驚いたアルヘンタの紹介で、マドリッドへ出てサインス・デ・ラ・マーサのもとで学ぶ事となりました。同年、イエペスはアルヘンタとスペイン国立管弦楽団のコンサートにソリストとして招かれ、アランフェス協奏曲を演奏、その後のパリ、ジュネーヴほかでの成功で、それまで無名のイエペスの名はヨーロッパ中に知れ渡りました。
1950年、イエペスは演奏活動を中断してパリに留学し、作曲をナディア・ブーランジュに学ぶと共に、ジョルジュ・エネスコとワルター・ギーゼキングに就いて演奏法を学びました。
日本を初めて訪れたのは1960年で、その後1996年までの間に17回来日しています。ギターといえば、イエペスの演奏する「禁じられた遊び」というくらいに日本では有名になったギタリストです。
- ジュリアン・ブリーム (1933- )
- 1933年ロンドンに生まれ、父よりギターを学ぶ。その後、王立音楽院で、楽典/ピアノ/チェロを学び、独学でリュートの奏法を習得。20歳の頃から、多くのレコーディングや五大陸全てで行ったリサイタルを行い。30代にはすでに大家と呼ばれるまでになった。以来ギター/リュートの第一人者としてリサイタルを行うほか、古楽アンサンブルでの演奏や、ギター曲の編曲、ジョン・ウィリアムズとのデュオなど、精力的に活動している。ジョン・ウィリアムスと並ぶ世界的な大ギタリストである。
- ジョン・ウィリアムス (1941- )
- “キング・オブ・ギター”と呼ばれ、現代のクラシック・ギター界の最高の演奏者、ジョン・ウィリアムスは1941年4月にオーストラリアのメルボルンで生まれました。父はジャズ・ギタリスト1930年代にイギリスからオーストラリアに移住、そこでジョンの母と出会っている。ジョンが初めてギターを手にしたのは4歳の時に父から楽器を譲り受け、たちまちその魅力に取り憑かれ、父の方針でもっぱらクラシック作品ばかりを演奏していたという。
1950年代に入るとウィリアムス一家は再びロンドンに戻り。父はロンドンでギター教室を開き、ジョンに最上の音楽教育を与えるべく“ギターの神様”アンドレス・セゴビアに会わせ、少年の類い希なる才能を認めたセゴビアは、自らの元で勉強を続けることを勧めた。こうして若きジョン・ウィリアムスは夏はセゴビアの元で、それ以外の時期はロンドンの王立音楽院に通いながら勉強を続けた。当時のクラシック界全体の風潮を反映し、王立音楽院ではギター部門が充実していなかったため、ジョンはここではピアノと音楽理論を学び、卒業後まもなく、ジョンは新しく設立されたギター部門を任されることになった。
演奏家としての活動は、1958年の11月、名門ウィグモア・ホールでのデビューコンサートで、まだ18歳に手の届かない青年が満場の観衆を前に堂々たるパフォーマンスを披露し、セゴビアに「音楽の世界にギターの貴公子が降り立った」と評した程の成功を収めました。
1963年にジョン・ウィリアムスは初来日。その直後、CBS(当時・現ソニー・クラシカル)とレコード契約を締結、1964年にデビュー・アルバム『CBS presents John Williams』を発表し、同年の12月にニューヨーク・デビューを果たした。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでその評価は上っていった。
リュート、ギターの大家として認められていたジュリアン・ブリームとは互いの才能を讃え、意気投合して新しいクラシック・ギターのムーヴメントを創りあげるべく、たびたび共演を果たし、それは70年代の後半まで続いた。
1970年代に入ると、クラシック音楽の演奏家としての自分に飽きたらず、ジョンは様々な可能性を追求し始めた。クラシックのコア・ファンやメディアからは道草を食っていると酷評されながらも彼はエレクトリック・ギターを手にするなど、そのサウンドの幅を広げていった。そして1979年、ついにジョンは純然たるフュージョン・グループ、スカイを結成し、再びクラシック音楽の世界へ戻るまで、その後5年間に渡り精力的な音楽活動を続けた。
1995年には実に25年ぶりとなる日本ツアーを実現、熱烈な歓迎を受けた。以後、日本には約2年に一回のペースで来日を果たしている。
- マヌエル・バルエコ (1952-)
- キューバのサンチャゴ・デ・クーバに生まれ、キューバとラテン・アメリカの音楽に囲まれて育つ。後にキューバのエステバン・サラス音楽院に学び、67年家族と共にアメリカに移住してからはバルティモアのピーボディ音楽院で学び、後には同校の教授となる。これまでに小澤、D.ジンマン、K.ナガノほか数多くの著名指揮者と共演している、ニューヨークでは兄弟のギター二重奏で活躍しているセルジオ&オダイル・アサドとの共演を実現させる他、ロドリーゴを偲ぶ演奏会ではロドリーゴ生誕の地ヴァレンシアで7,000人の聴衆を前にアランフェス協奏曲を演奏。各地で演奏活動をしている。
- エドアルド・フェルナンデス (1952- )
- ウルグアイ生まれ。11歳の時に兄弟で初デュオリサイタル。71年ウルグアイ・ギターコンクールに優勝、75年にはアンドレアス・セゴビア・コンクール優勝。77年のニューヨーク・デビューで絶賛を博し、南北アメリカで積極的な演奏活動を展開。83年ロンドン・デビュー。84年にはエディンバラ国際フェスティヴァルに招かれる。88年セゴヴィア記念グラナダ・フェスティヴァルに参加。91年ロドリーゴのコンチェルトによるライヴ・コンサートのビデオをリリースするなど、多彩な活動を行なっている。
- デビット・ラッセル (1953- )
- 1953年6月1日にスコットランドのグラスゴーで生まれ、6歳の時にスペインのメノルカ島に移り、16歳までカタルーニャ文化圏に属するその島で過ごしました。ギター好きな画家の父親の影響でギターを弾くことになっったようです。その後、ロンドンの王立音楽院でギター、ヴァイオリン、フレンチホルンを学び、1970年と1971年には「ジュリアン・ブリーム・ギター賞」を受賞しています。更に、スペインに留学したラッセルは、アリカンテやサンティアゴ・デ・コンポステラでホセ・トマスの指導を受け、アリカンテ国際コンクール、アンドレス・セゴビア国際コンクール、タレガ国際コンクールと立て続けに優勝を重ね、一躍注目を浴びる存在となりました。
- 福田進一
- 1981年パリ国際ギターコンクールで優勝、その後は世界中でコンサート活動を行い、まさに日本を代表する世界的ギタリスト。また、教育者としての活動も積極的で、村冶佳織・鈴木大介・大萩康司等の未来のギター界を担う逸材を輩出、日本のギター音楽界をリードして来ています。
詳しくは 福田進一ギタリスト日記 をご覧ください。右の写真はベスト盤CD「Super Best」のジャケットです。
- 村治佳織
- ギターファンに限らず、TVCM出演ですっかり有名人になりました。1993年のデビューから10年を過ぎて、日本国内はもとより海外に於いても活躍しています。
詳しくは 村治佳織オフィシャルページ をご覧ください。右の写真はデビュー10周年記念CD「ESTELLA/エステーラ」のジャケットです。